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 38SOTU DOSOKAI

ご案内information


◎お便り紹介 (順不同敬称略)手書きの原稿はそのまま載せました
濱上先生


脇田先生

君付先生

前原 豊

  
星村 美和子



八代 義治
 
濱田様
 中学同窓会の幹事役、本当にご苦労様でした半年掛けたただけあって出席人数も多く、また行事も多彩で本当に感心しました。不思議もので幼馴染みの連中と話ていると、最初から名字ではなく下の名前で呼び合い、それが当然でなんの不思議もない事でした。「ユタカ」「タカシ」「シロウ」「アキラ」..etc 子供に戻ってLまうのですねえ。 私は台風に封じ込められまして31日に埼玉へ戻りました。またあくまで趣味的ですが日本語の勉強に戻ります。それから低い山歩き、下手になったゴルフ、会社時代の同僚との城祉見学などなど。結構忙しいかも。 濱田君、関東へお越しの説は一報ください。
感謝の気持ちとお礼申し上げます。あとうございました。そしてご苦労様でございました。ほかの幹事さんたちにもよろしくお伝えください。追)文集の原稿、何回目かの同窓会に出られなかった時の手紙と内容的にダブっているかも知れません。古いデータがPCデータに残っておりませんので確認できませんのでご勘弁を!念のためこの頃やっている鹿児島弁の研究についての文章も足しました。『少年Y・・』を使わない場合ほこっちを使ってください。

    
少年Yの中学時代
                                   八代義治
 僕たちが叫中に入学したのは1960昭和35年ですね。校庭に行ってみて気が付いた のは馬鹿みたいですが「は臥中学校には遊具がかゝんだ!」ということでした。ガキ! 1年の1学期は1観で担任は川元先生、このクラスだけ新校舎の1階、西のはずれでした。あとは木造校舎で2組は放課後になると柔道部の部屋。4組以降は北の木造校舎だったと思います。その木造校舎で八木君が西中村先生に「防具を付けろ」しこたま竹刀でぶっ叩かれたそうです。何でだったんだろ?英語の山口先生、おっかなかったあ!2学期はクラス替えがあり4組。教室はそれまでは図書室だったそう。平田律子さんが何か悪口でも言われたのか、はたきを持って机の上を跳び回りながら茶薗君を追っかけていたことを思い出します。担任は脇田先生でしたが、先生、独身だったせいか時々オステリー体育の授業で茶園君が頬をひっぱたかれて1m位ぶっ飛んだ。今だったら騒動になりそう。先器用獅なのか国語、英語、体育まで担当されていました。 2年は4組、住吉先生。ちょっとは落ち着いたのか、あまり記憶に残るようなことはありません。ただ住吉先生には札幌で二度ほど遭遇しました。僕が朝日新馳広告部でキューピー担当糾しているときで「お母さんコーラス」の全国大会でした初の時は鹿児島県代表を引き連れて。ニ回目は多分九州合唱連盟役員としてだったと思います。ニ度とも「こいつは中学の時の担任で、やんちゃでねえ」とお母さんたちに紹介されたことを思い出します。 3年は9組でまたも川元先生。ある日、T先生が「お前らの掃除はなっとらん」と。「ああ、そうですか、ほんならやりなおします」ってんで、5時間目の音楽をさぼりました。同志は原口君他全部で4−5人だったと思います。はい、すぐ僕だ職員室に呼ぼれました。「何でさぼった」「掃除がなっとらんと怒鳴られてあっ結きたもんですから徹底的にや直すていました」。1分沈黙。「よし、分かった」と無罪放免に。川元先生、男でしたねえ。僕は1年の2学期から3年の1学期まで生徒会の役員やっていました。全校集会などがあると前に並ぶのですが親戚のお嬢に言われました。「もっと服装に気を遣ったらどうなの。ズボンなんか擦れて白んでるよ」と。確かに木綿のズボンは何度も洗って毛羽立ち、白んでいます。詰襟の襟もよれよれ。でも当人はそんなこと、気にしたことがなかったので、びっくり。ははあ、おなごはこんなところを見てるのか。未だ少年の僕ほ初めて服装というものに注意を向けせられたのでした。高隅山に登って暗くなって帰ったことがありました。松栄君ともうー人いたでしょう。松栄君のお父さんがずいぶん心配して「警察に捜索願を出しましょうか」と僕の両親に訴えていたところに帰ってきて、多分松栄君は怒られたでしょう。彼と永上君とは桜島の袴腰まで自転車で3回ぐらいサイタリングもしました。古江の坂は「行きはよいよい、帰りはこわい」でした。垂水から先は舗装もしてなくてケツが痛かったですよ。思い返せば中学時代は青春以前、少年でした。今でもあんまり進歩していません。アホなんで長生きして皆に迷惑かけそうな気がしています。

相蔵 和美


          私の半生を顧みて
                        平成30年6月 吉日
                          相 蔵 和 美
 高校3年の夏、旅行会社の添乗員という学校の紆介で受験し内定通知をもらった。添乗員になれば各観光地に行けると淡い考えを持っていた。中学時代に今の塾通いのように先生宅で数学の勉強を夜9時頃までやっていた上玉利先生に内定通知を報告しました。上玉利先生は、私のことをよく気に掛けて頂いた恩師でした。父親は冬の寒い暗い夜も終わるまで迎えに来て外で待っていてくれました。今になれば両親が教育熱心だったと思います。いつも教育に関する事についてはある程度準備してくれていました。先生から添乗員のことも教えて頂き、それは数日間も家に帰れなく家庭を留守にすることが多くなることでした。 年末に、鹿屋航空基地内にある鹿屋航空工作所(旧海軍工廠)の募集があると母から聞きました。母が言うには、国家公務員で安定した職業だからと勧められました。再び先生に相談した結果、旅行会社より公務員を先生に勧められ、また先生の義弟も勤務していると聞かされて、葛藤はありましたが受けるだけでもと思い受験しました。結果は合格。しかし、学校から紹介された内定通知の旅行会社があります。両親ほ公務貞を勧めておりどうしょうかと悩みました。ここでもまた葛藤がありました。学校からの紹介でもあり、今後学校の就職活動に影響を及ぼす可能性があると考え、後日担任の先生に相談したところ、激怒され、またまた悩み人生甲岐路に立たされたような気分になりましたが、今まで中学時代の成績が両親の期待に応えられなかったことを考えれば、両親の勧める公務員が相応しいと思い決断さました。 航空工作所は全国に3カ所(千葉県、青森県、鹿児島県)あり、千葉県の航空工作所に配置され、そこで8年間勤務しました。その間、もともと旅行好きだったので多くの観光地を見聞しました。25歳の時、鹿屋に転勤出来て万々歳でした。 鹿屋での職場は、通常業務以外でバレーボール、ソフトボールが強く、自分も参加して市内の大会で何回も優勝を経験しました。その頃も、旅行だけは機会があれば離島、中国、四国地方あるいは県内の史跡巡り等を見て回りました。 音楽の方も興味があり、鹿児島市内で公演(ポールモーリア、レイモンルフェーブル)等があれば、午後から休暇を取り鑑賞に行き、帰路についた車中では、自分の胸中は彼らの音楽に満たされ青春の真っ只中にいました。60歳で定年退職後、錦江町、南大隅町にある4校の登校、下校の立哨、指導や老人ホームの介護等も体験しました。 登校、下校の指導では、南大隅町役場、錦江警察署、鹿屋県合同庁舎等に行き、危険個所の要望書を提出しました。特に、南大隅町の信号機の新設は、県内でも最も要望が多く、順番待ちと聞いていましたが国道の車道用信号機が赤にも関わらず、横断歩道に歩行者用信号機が設置されていないため、町民が危険を感じたので、信号機の設置を錦江警察署に要望し、2〜3カ月で設置されたときは、行政機関への要望する事の必要性を強く感じました。また、大河ドラマ(西郷どん)で有名になった(雄川の滝)の下流河畔に竹やぶが茂り、通学生徒が対岸から死角になる場所が数カ所あるため、登下校の指導員の立場から安全確保を県河川管理課に要望し、1カ月後約5〜600mの範囲を重機で竹やぶが撤去されたことにより後日、南日本新聞に報道されたことが自分でも感慨深いものがあります。自宅近くの慰霊塔に石碑があり歌が刻まれています。 今日もまた 黒潮おどる海洋に とびたちりきし 友はかえらずこの中で(とびたちりきし)の(り)について高校時代から疑問を持っていました。毎年、慰霊祭があり全国各地より遺族、戦友の方々が来られます。そのたびに気掛りになっていましたので、(り)について(ゆ)ではないかと今年(平成30年)に鹿屋市役所公園管理課に提言、調査をお願いしました。後日、公園管理課の担当者より連絡があり、(ゆ)であることが判明しました。その歌は、私が小学生時代に鹿屋市長だった現在市庁舎玄関前にある銅像の永田良吉様の歌であることが役所内の文献に残っており、現在は原文通りに修正された歌碑になっております。約半世紀前から誰も気付かず放置されていたことになります。 近況は50年前に買ったステレオ・レコード盤及びパソコン等で音楽を聴いたりしてまだまだ若いと自負しながら「もう71歳」ではなく「まだ71歳」である気持ちで、これからの人生100年時代と言われる毎日を自分らしく、おう歌して過ごしたいと思っています。

浜口(青山)恵子


常盤 博臣
前 略
 先日ま突然の訪問にも係らず、親身な応対のと、沢山なお土産まで頂戴し、何ともお礼の申しようもありません、本当をごありがとうございました。
妻子も大変喜び、同級生とはこんなに素晴らしいものかと驚き、感激しておりました。加えてマンゴー森さんでも、家内が来月北海道に持参するお土産を少し買わせていただいたところ、お義兄さんに美味しいジュースを御馳走をこなりました。また、先日のKVTへの出演の話も、お忙しいところ時間を割いてお話いただき、楽しく思い出深い1日となりました。 本当をこ有無う。また、昨日は貴君の貴重な体験、人生訓を送付していただき誠にありがとうございました。大変感慨深いお話で、今後の私や家族の参考とさせていただきます。同封の駄文は、私の拙い半世を初めて書いてみました。御笑読いただければ幸いです。梅雨時の鬱陶しい時期ですが、御家族皆様方のご健勝を願っておりまず。   

入一生、谷あり、空あり?てか。

中卒の齢は、15歳だな〜.昭和38年3月23日、場所は宵闇迫る鹿児島本駅。今は、鹿児島中央駅が玄関だろうが、その当時は本駅が玄関と終着駅。そこに21名の中卒または高校中退で海上自衛隊生徒(つまり少年自衛隊)に入隊する者が、参集した。
駅から夜行特急の「はやぶさ」の自由席乗り込み、広島県の呉市へ.呉には海上自衛隊の艦船部隊の他に、新規採用の自衛官を初等教育する呉教育隊が今も存在する。そこで3ヶ月基本教育(行進、自衛隊法、短艇(カッター)訓練、射撃等)を受け、恐ろしい赤鬼、青鬼(少年自衛官の2、3、4年の先輩の意)が待ち受ける鬼が島=江田島へ。江田島は知る人ぞ知るその昔、旧海軍兵学校があった島。現在は自衛隊の幹部候補生学校ほかがあります。そこに北は北海道から南は九州種子島まで、全国から121名が集結(当時の競争郎27倍参考までに海上自衛隊のパイロットになる操縦学生は57倍だったとか。) その江田島で専門技術の連信と水測に分かれて学ぶと共に、旧制広島1中である広島県立広島国泰寺高等学校の普通科に入学、勿論、授業後はラグビーや剣道柔道等等のクラブ活動にもグアンバル毎日。楽しみは日曜に外出して、広島名物の焼きソバを食ったり、映画を見たりだったが、帰校時間が20時厳守だったため、しっかり楽しめたのか?(記憶にありません)最大の楽しみは夏休暇と冬休暇だった。(最初は5日間、その後は2週間)しかし、1年から2年になるとき、落第者が10名出て、中には退職するものや4年間の少年自衛隊を5年掛けて卒業した猛者?もおったド〜。私は、幸いに4年でなんとか高校と少年自衛官を卒業デケマシタ。そして、航空身体検査に合格でき、鹿屋基地勤務も可能な航空士を熱望して、約7カ月の訓練、教育の後、憧れのウイングマーク(航空記章)を胸に、勇躍鹿屋基地の第1航空隊に着任。そこを振出しに搭乗した機種は、P2V、P2J、YS-11、US-1、P3Cの航空通信士や電子整備士として7700時間以上の飛行時間(それほど多くはない)でしたが、幸いにも大きな事故にも遭わず、地場務は東京六本木と市ヶ谷勤務も4年半勤めさせてもらい、ノイローゼになることなく、最後は鹿屋基地電子整備隊で定年を迎えることができました。振り返ると、55年前にセーラー服(海士)から下士官(海曹〉、そして士官(幹部=27年間)総計38年5カ月の間、海上自衛隊に奉職させていただきました。当時としては、片親の子供は就職が難しい時代でしたが、お陰様を持ちまして国家公務員特別職として就職、勤務できました。結婚は、幹部(暴力団じゃないよ)になった昭和50年(28才)に地元国分美人の妻(22才)とお見合い婿。長女(元ANAのCA、旦那は現在JAL国際線機長、長男(毒身)、次女(独身長身の美女)と3人の子供に恵まわてそこそこ幸福に−一。−−。できうればもう少しリッチな生活が−−−。上を見たらキリがない。下を見たら後がないっテカ。まア、ここまで13回も転勤してきて、家内や子供に言えない苦労があったことと思いますが、これも神様仏様ご先祖様方々のお導きの賜物として、有り難く寿命を全うしなければ罰が当る。と思い、毎日家内に感謝(心の中でヨ)しつつ、誠実に生きることが、せめてもの恩返しと思う今日この頃なので〜す。自衛隊定年齢ま、縁あって鹿児島綜合警備のKVT警備隊班長を5年余、その縁でKYT役員車の運転手とんて12年を迎え、超安全運転で無事故無検挙を目標にーーー。たわいもなく、取り留めのない駄文となりましたが、御笑読いただければ率いです。

山元 勉


小石田(有村)

西 美津子

  

瀬戸口 輝範

宮下 祐子


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常盤 博