中山義則 <yoshi-302@ceres.ocn.ne.jp>Wed, 23 Jan 2013 11:11:21
今日同窓会の写真等をいただきました。
幹事、世話役の皆様お世話になりました。
郷原正蔵さん作成のホームページ開設にも感謝です。
先日帰った時の桜島の昭和火口の写真を参考までに添付しました。
交流の広がることを期待します。
3年2組 中山義則
新元 一郎 <ichiro21910@i.softbank.jp>Thu, 31 Jan 2013 21:04:36
改めまして、明けましておめでとうございます。
S38年第一鹿屋中卒業生の皆様、お健やかにお過ごしの事と存じます。今年もよろしくお願い申し上げます。
皆様のご健勝、ご多幸を祈願して、九十九里浜からのご来光写真をお送り致します。
千葉県山武市 新元一郎
◯1月200名に同窓会写真・名簿を送付いたしましたところ有村秀人君より通信費として5,000円送付がありました。
また、小野田和雄君数名より70才開催には必ず出席しますとの返事がありました。
◯5月7日(火)柏木さんほか3名長崎鼻に来訪、佐伯君の(にしきや)で買い物をしてくれました。
◯懐かしい写真が有りましたので掲載いたします。
●訃報です。3年4組 岸上先生 馬庭忍 3年2組 池田宏 諸氏のご冥福をお祈りいたします。
○(Kenichi Kakimoto )kaki4248@gmail.com
昨年12月にタイ国のPattayaに移住しました。
70才の同窓会のスケジュールは決まりましたか?
我らが同窓生と卒業以来、半世紀を超え、た時点での級友の成長ぶりや如何に!顔と名前が一致しないだろうけど、会いたい気持ちが琴線を揺さぶっています。
柿元憲一
2017年4月22日午後6時30分
鹿屋市共栄町『ひよこ』にて
幹事会開催
幹事11名出席
代表幹事 濱田正明
幹 事 前原豊 松下隆 大久保玲子 平山さえ子 吉ヶ別府美保子
若松ケイ子 岩倉章子 西迫律子 佐々川マサ子 垣内静香
次回幹事会と同窓会開催日時を決定
次回幹事会 2017年7月8日(土)
◎同窓会 2,017年10月28日(土)PM4時〜9時
◎2次会 PM2時半〜121時
◎会費 男7,000円 女6,000円
◎2次会会費 男2,000円 女1,000円
写真撮影と同窓会記念誌を作成する
同窓生の安否住所の確認
9月前半に往復葉書にて出欠を問う
以上報告です。
*東京にて5月28日(日)正午 新宿(鬼庭)で昼食会が開かれます。
幹事は金子妙子(寺田)参加者21名ほどの予定です。
〇八代義治
濱田様
先日は焼酎を送っていただき、誠にありがとうございました。福島の方に行っており、お礼が遅れてしまい、失礼いたしました。お礼とお詫び申し上げます。確かにこの焼酎、美味しいです。以前貴兄のお店を訪ねた際にいただいた赤竜宮、うまかったので長女の婿に「秘蔵の焼酎だ、お前のワインに匹敵する焼酎だぞ」と大切にと今回も奴が来たら自慢たらたら飲ませますわ。話変わって同窓会の件、「万歳」はOKです。なんでもやりますわ。ところで何人ぐらいの参加者になりました?前回の時もそうでしたが、顔、特におなごさんの顔はなかなか分からんでしょうなあ。名前を聞いてから「おおお、お前かあ!!」というのが同窓会の常で。とりあえずお礼とお尋ねばかりになってしまいましたが、再会を楽しみにしております。
〇大場 昇
佐伯君 おやっとさあです。 焼酎をありがとうございます。この焼酎は君が自分でデザインして、字も書いたんだって知って驚きました。このアイデアがいいですね。前にも貰って知り合いに「竜宮城の乙姫様のお土産」といってあげるととても喜んでくれました。おおきにな。お礼を申します。 古稀同窓会のお知らせ、読ませて貰いました。また、君の今までのことを書いた手記には大変に心を揺り動かされました。小学校4年生でお父さんが亡くなられて苦労が始まったんですね。鹿屋高校に進む学力が十分にありながら、工業高校へ進学した君の胸の内を当時もちよつと思ったことを思い出します。 就職して弟や妹さんの学費のために仕送りしたり、君の頑張りは無私の尊さにあふれていますね。頭が下がります。ぼくなんか君の爪の垢でも煎じて飲ませて欲しいぐらいです。 いっか長崎鼻の君の店で会ったとき、奥さんのことをチラっといって口ごもった君でしたが、これを読ませてもらってよくわかりました。余命2年を、君の懸命な愛情あふれる頑張りで神様を呼んだんですね。 ぼくも友達に貸した金のことで君と同じようなことを経験をしました。義理と人情は今も付きまとっていますからね、人生は難しいですよね。 了徳寺さんとは工友会の方と大学まで会いに行って、君の詰も出ましたので、工業高校からすごい人物が出たって感心しました。彼がちようど頭を丸めているときでした(笑)君の手記に感動して、以上ちょっと書いてみました。ところで、ぼくはですね、体調が思わしくなくてここ3、4年鹿児島に帰れていません。若いころ秘書をしてて激務で体を壊し肺結核になつて26〜35歳の10年間サナトリウムに入院し、左の肺を全部取って片肺です。あばらも7本とりました。もう人並みに動けなくなって塾を始めたんですが、最近は片肺で無理を重ねた心臓がおかしくなって心房細動をくり返すようになり、電気ショックを7回やってその都度何とか隼還できました。今はもう電気ショックも償えず、慢件心不全が進行している状態ですので、心臓が規則正しく打っことはもうないんだそうです。そういうわけで飛行機に乗れなくなって鹿屋に帰れなくなりました。田崎に94歳のおふくろが−人で住んでいますが、顔を見ることもなですから、古稀同窓会も出席できません。誠に残念ですが。君から何かスピーチをと依頼がありましたが、申し訳ないです。ただ、同窓会のあとに何か冊子を作ると書いてありますね。出席できないお詫びに、その冊子のために一言、中学時代の思い出を書いてみます。 次の3〜4ページがそうです。 幹事さんをいっもやってもらって本当にありがたいことです。君の生き方に拍手を送ります。90歳まで現役でやってくださいね。奥さんをお大事にな。
「思い出すこと、思い出す人」 大場 昇
中3の2学期の秋でしたが、土曜日で授業が午前中で終わって、校庭に立ち高隈山を見上げていたら、「頂上まで走って登ってみろかい」と急に思い立ち、ひとりで郷之原の登り口から走り始めました。 途中までは確かに走っていましたが、頂上近くは坂が急で、気持ちは走っているが実際はやっと歩いているだけの状態でした。それでもなんとか頂上にたどり着き、帰りは暗くならないうちにと走りづめで降りてきました。 若さって無謀で大胆なもんですね。供養を兼ねて二人の同級生の思い出話をしてみます。 まず、八木君。ぼくは若いころ10年間結核で入院していましたが、八木君は折につけ、トマトジュースの2ダース入りの箱を担いできたり、ぼくらと同じ年の作家・立松和平の本を5,6冊紙袋に入れたりして、差し入れがてら見舞いに来てくれました。 彼は−度も結婚することもなく、まだ50代だったと思いますが、会社を辞めて鹿屋に引き上げ、カンボジアの子供たちを支援するNPOで活動してカンボジアによく行っていました。 あるとき、彼がタイから荷物を送ってきました。「君の書いた本がバンコクやシンガポールの書店でベストセラーになっているよ」というメモの入った段ボールを開けると、ランの花がびっしり詰まっていて、南国のかぐわしい香りが飛び出してきたものです。 彼とは中学時代に宗教や哲学のようなことを話し込むことがありました。彼の無垢で孤独な傷っきやすい魂は、みずから死を急ぎ求めてしまいました。この牡の中の汚れや理不尽に耐えられなかったんでしょう。1年忌にまだそのまま残してあった彼の部屋で、妹さんの勧めで、ずらりと並んだクラシックのCDの中から1枚を、彼の遺品としてもらい受け大切にしています。次に東条君。 彼は一中のアイドルでしたよね0文化祭では白い鉢巻きに袴姿で黒田飾を踊り、市内駅伝大会では−中のアンカーとして市役所前のゴールに飛び込みました。もう半世紀以上も昔のことだから、話してもいいでしょうね。中2のある放課後、彼に校舎真に大きく掘ってあったごみを燃やす穴の前に誘われました。「大場君、これを焼きたいんだけど」。両手に抱えきれないほどの手紙で、多くは封も切ってない。先輩の女子からの手紙が多いとのこと。こんなにもてる男がいるのに、たまがりました。手紙の束に火をつけると、大きな炎となって大空に舞い上がっていきました。 彼は10年近く前かな、ガンで旅立ちましたが、その1週間ほど前に会ってランチをした際、彼は1口も手をっけませんでした。奥さんから計報が届き、彼の自宅に急ぎ、寒い夜で奥さんが出してくれた熱爛を彼の遺影に献杯して、その早逝を恨みました。奥さんとしんみり彼の思い出話にひたることでした。 彼は女性にときめきを与えるルックスと容姿に加え、純な真心を授かっていました。シャイな胸のうちには、中学時代を通してたった−人の女性しか秘められていませんでした。
〇児玉光郎
拝復
9月7日(木)に宅配便が届き拝領いたしましたにしき屋限定の「さつま竜宮」「白龍宮」どちらも見事なデザイン外装で驚嘆いたしました。退職してカ、らは、あまう飲むこともあうませんが、週に2〜3回芋焼酎を1杯いただきますので、今から開封するのが楽しみです。それにしても、音信途絶状態の私ごときにご配慮いただきましたこと、恐縮の至りで、申し訳なく存じております。同梱の封書、拝見いたしました。迫カある文章に引き込まれ、一気に読み進められました。佐伯君の小・中学生の頃の家のこととかは話をした記憶もなかったのですが、今、振り返ってみると、そんなに饒舌ではなく黙々と暴らしていた印象のある佐伯君の気概とかエネルギーとかの源も理解できるような気がしました。自分は、甘えながらも両親兄弟が揃っていて、末っ子として気ままに育っていたと思います。毎年、ニ学顛が始った項「十五夜」があり、学年ごとに相撲の「五人抜き」がありました。身体も大きくて運動も好きだった私・は、禰撲でもあまり負けたことはありませんでしたが、確か5年か6年の時(多分佐伯君が引っ過してきた)佐伯君の腰に乗せられ見事に宙を舞った記憶があります。派手な負け方で、人生初の屈辱だったのかも知れません。「苦学」のことでも深い感銘を受けました。我々の同世代では、進学・就職の進路で振り分け的なこともあった訳ですが、佐伯君のように苦学した人はあまり知りません。しかも、その苦学が実を結んだのですからスゴイと言うほかありません。想像を絶する努カだったと想像し、敬服しています。また自分のことになりますが、小さい頃から勉強ぎらいで、勉強から逃れようとばかりしていたことが、今更恥ずかしくなります。それでもそこそこに成績は出ていたので、何となく高校に行き、そこではバスケットボールや陸上ばかりをやり、授業中は居眠りばかりで周囲のひんしゅくをかつていたと思います。みんながそうするので大学を受けたら選良く合格してしまいました。高枚の担任に報告に行ったら「お前みたいなヤツがいるから泣くヤツがいるんだ」と言われる始末で、少しも喜んでもらえませんでした。学生の時も授業は身に入らず、マージャンとかボーリングヒかの遊びばかり‥。家庭教師も複数しましたが、遊ぶ金ほしきで恥ずかしい限りです。佐伯君の苦学の末に、天下の名古屋大学があるのも強敵な希神カや忍耐カの象徴なのだと感じました。佐伯君は、その後の人生でも「波瀾万丈」的な面が多く、苦楽が顕著でドラマティックなので、テレビを見ているかのようです。単に娯楽的な内容ではなく、ドキュメンタリー的な非凡なものです。奥様の病気などを除けば、とりあえずはハッピーエンドかなと安心できます。きっと、一血の出るような普労・穿カの頼み重ねが成功・繁栄の礎となり、安定的な結果へとつながっているのですね。私は、進んだ学芸大が教員養成大で、周りが教員になるので何となく先生デモやるか的に22歳でサラリーマン先生になりましたのんびりとした先生家業を送っていましたが、38歳の時出会った校長が強引に管理職への道を進め、41歳で教頭になり46歳から62歳まで16年間校長をやりましたが思い返すと「自分でよかったのか?」との反省ばかりです.勤めていた頃は、真面目ぶって先生役を演じていたとか思えません。ところで、鹿屋高校の2年先輩の中川路さん柔道部、その後も学芸大で柔道をやり現在8段とは毎週ゴルフをしています。了徳寺大学の創始者は鹿屋の人で柔道をやっていたらしいけど知っていますか?」と開いても「知らない」と…。高校の同級生に体操部の了徳寺はいたけど、まさかその人ではないだろうしとの疑問が解けました。すごい人ヒの出合いはまた、佐伯君の人生の活カにもなったのでしょうね。佐伯君は、本削こ良き師・良き共に恵まれたと思います。「故郷を捨てた」みたいになっている自分も、中学や高枚の友を大事にしておけば、少しは逢った人生が開けていたのかも知れません。 中学の名簿も見せてもらいました。物故者も有人前後、と聞き驚きました。自分も長生きの部類になっているとは…。藷々の事情で帰省できず、同窓如こも参かできまサんこと申し訳ございません。くれぐれもご盛会と佐伯君はじめみなきまのご多幸をお祈り申し上げます。 お礼状のはずが、長々と昔藷のようになってしまいました。この度は、心のこもったご高配をいただきましたことに重ね重ね感謝申し上げます。有り舞うございました。 敬具
有村秀人
拝復
同窓会のお知らせと美味しい貴重な焼酎をいただき、ありがとうございます。恐縮しています。同窓会の当日、当直(休日診療所)ですが交替してもらう予定ですが未定です。北関東は秋です。親戚から梨を送ります。先ずは御礼まで。
君付学
拝啓
秋冷の候、お変わりなくお元気でご活躍のご様子なりよりお喜び申し上げます。日一日と待望の古稀の同窓会が迫って参ります準備等にお忙しいことと拝察いたします昨日は素晴らしい焼酎を沢山お送り下さいまして誠に恐縮に存じます誠に有り難う御座いました同封の名簿をいただき元気であれば参加したい気持ちでおりますが迷惑をおかけしてはと思い失礼いたします出席の皆様方や先生によろしくお伝え下さいところであなたが10年前に出されたレポートを見て大変な苦労されたことそれにめげず前向きの精力的な精神で今日の立派な事業を築かれたこと深く敬意を表しますそれに最愛の奥さんの難病を克服された努力に強く感じました奥さんも健康を快復されそれに立派など子息が成長され何より頼もしいことです本当にあなたの人生は立派なことです後ほどメッーセージはお送り致しますがとりあえず感謝のお礼を申し上げますご家族様によろしくお伝え下さい来たる同窓会は盛会でありますようお祈り致します 敬具
平成29年10月8日 君付学
濱田正明様
拝啓
秋の肌持ちの季節が続いていております。先日はすばらしい焼酎を沢山いただき誠にありがとうございました。あなたがデザインされたとのこと立派なものですおいしく味わいますまた、工業高校時代大学と柔道にも熱中され素晴らしい先輩、同僚を持ち家計も困難を克服され奥様の難病も必死の看護で無事に乗り切られまた奥様も元気になられお二人の素晴らしいお医者まで育てられたことを知り感動いたし只敬服いたしました長崎鼻の名観光地で地元発展にも尽力され立派なものですいつぞや私たちの老人クラブでも大変お世話になりましたお体をお大事にして益々発展させて下さいご依頼のメッセージを作ってみましたが縦書きと横書きでどちらが良いかそちらで選別して下さい28日の同窓会の大盛会をお祈りしています皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします 敬具
10月10日 君付学
正明様へ
長寿を目指して
皆さん こんばんは、古希をきねんして、万障お繰り合わせて、一同にお集まりくださいましたことは、何よりも 意義深い一夜になることと、お互いのお元気なお姿に心からお祝い申し上げます。おめでとうごaいます。 また、本会の同窓会を企画・運営された濱田正明横並びに佐々川マサ子様、ほか関係された皆様に、感謝のお礼を申し上げます。ご苦労様でした。 私も折角のご招待をいただきながら、出席できなかったことは、誠に申し訳がありません。体調に自信がなくて、ご迷惑かけたらと思いました。 私ごとですが今年(10月2日)で満90歳を迎えました。ここまでの健康について概略申し上げます。長寿を目指す皆様の一助にならば幸いです。
1、人の健康は、60〜65歳・70歳〜75歳・80〜85歳・90歳〜 と5年ごとの節目で体調に変化があると・・先輩から聞かされました。
2,私は、教員を退職したのは、昭和63年4月でした(60歳)。やっと一段落ついた時食後2時間たった後じんましんが手足に出て不審に思いかかりつけのお医者さまの診察を受けたら血液検査の結果、膵臓が疲れているとのことで、これから3ヶ月焼酎を辞め、消化の良いものを食べ、脂肪を少なめに、良く噛むこと消化剤をいただき徹底して守りましたたら、肝臓・すい臓・等の数字が基準まで下がり、人の体は快復力があるものだと自倍を持ちました。 その他、前立腺も60歳でせつじょ (ガンなし)・7年前に腰部脊椎管狭窄症を患い、ブロック注射3回と2年後5回受け、リハビリは欠かさず、手術を受けずに来ました。ひざはヒヤルロンサン注軒を週2回受けています。
3,健康維持には、まず自分の体調を知ること(異常に気付くこと)医師の指導やインターネットでも知りうる。(情報収集)
4,70歳以後の健康維持をされ、幸せな人生を送るために、先輩の言葉を贈ります。
*105歳まで現役まで生きられた日野原 重明先生は、「命があることは、自分の使う時間があることである・・それも人の為に有効に使いなさい」
*比叡山延暦寺の寺職「酒井 雄哉」大阿閣梨先生は「自分の命は、神様からの預かりものである・・人生で果たすべきものがあるはずだ」と述べておられます。
終わりに 皆様には、これから長寿寿命を目指して、家族の為にも、社会の為にも元気して頑張ってください。ご多幸をお祈りします。
29年10月10日 君付学拝
立元良三
溝田正明 様 立元良三
先日は、同窓会の連絡有り難うございます。「わが人生・・・」感親しました。幻の焼酎3本も贈って頂き有り難いことです。さて、依頼のメッセージがやっとできました。遅くなって
申し訳ありません。字数が多い時は適当にカットして下さい。28日会えるのを楽しみにしています。
古希同窓会を祝して 立 元 良 三
皆さん「古希同窓会」おめでとうございます。
卒業後55年、90名近くの皆さんが集まって同窓会が出来る、ことはとても素晴らしいことです。当時の担任ということで、招いて頂きありがたく思います。私もお陰さまで、10月18日「達磨」を迎えました。皆さんの古希祝いと一緒に祝って黄えたら幸せです。
さて、私の長い教職43年のなかで皆さんが最も印象に残っています。小学校の教師13年、初めて中学校師になった時と、皆さんの入学が一緒で卒業まで担任できたことです。
教科も初めての理科担当、学生時代は戦争中で、満足な勉強もできずに教師になり学力不足の私でしたが、教えながら学ぶという気やちで、分かる授業をと実験にも積極的に取り組みましたが、皆さんが熱心に取り軋んでくれ理科教師としての基礎ができたと思っています。当時、全校生徒1200名程の大規模校でとても生徒指導が大変でしが、齢30歳元気があり精一杯頑張りました。環境美化に精出しました、たい肥集め、毎日の作業での穴掘りなど皆さんの記憶に残っていると思います。卒業文集に、「環境は人をつくる」を寄稿、学校の環境づくり3年の歩みをかなり詳しく書いたことを憶えています。卒業記念樹は、サンゴ樹でした、当時珍しい樹でした、皆さんの卒業記念費で500本を購入、校庭の周辺に植樹見事に成長しました。残念ながら校庭の西側は道路拡張で今無くなりましたが、東側には今も大きく成長して環境美化と防風防塵に役立っています。平成2年串良中学校を最後に定年退職しました。最後まで「やる気」を持って、子どもたちと取り組む事ができたのは皆さんとの一中時代の出会いがあったからだと思っています。 退職後は、民生委員を15年間務めました、社会福祉に責献したと市民表彰を頂き有り難いことでした。
他に「語り部」をやっています。70前の悲惨な戦争を体験しました。旧制中学4年の時でした、近くに爆弾が落とされたり、機銃掃射を受けましたが命が助かりました。二度と戦争をしないために平和を訴えています。趣味活動で臥週一回のカラオケ教室と健康教室などに参加したり盆栽や花つくりなどやっています、これが元気の源ではないかと思っています。
以上、皆さんとの出会いや近況などまとめました。
「古希同窓会」の盛会と皆さまのご健勝を祈念します。
濱上源基
古稀おめでとうございます 濱上源基
「人生70年古稀稀なり、だから生きているうちに酒でも飲んで楽しもう」と唐の詩人杜甫は言いました、ところが佐伯正明さんの「我が人生における感慨」に人生後半の勝負、末永く切磋琢磨して行けたらと切に願う。」とあり、マイルドに生きるか、シビアに生きるか皆さんも古稀を迎えられて、どう生きるかを問われいます。70年間立派に生きてこられて、しかもこれからの生き方は自分で選択できます。その生き方については古代ローマの昔から、キケロと言う哲学者は「老年についてと言う本(岩波文庫)でその老年期のあり方を述べていますし、最近亡くなられた日の原重明先生や、「がんばらない」の蒲田實先生などが多くの示唆を与えて下さいます。小生は皆さんに生き方を提言できる実体験がありませんので、今、今、齢83をどう生きているかかを話したいと思います。皆さんご存じのシルバー川柳の中に、「起きたけど寝るまでとくに用もなし」というわけにもいかず、シルバーセンターへ行きビルの掃除、草取りの経験をいたしました。また天気の良い日には山に行きました。主に九州の山々で遠くはネパールのアルプス街道、この10月8日(日)にはえびの高原えびの岳に登りました。腰や足の痛みを治すのは病院ではなくて山の空気でした。ところが先の川柳に「立ち上がり誰もいない道ふの返り」小さな石につまづき倒れる、筋力のなさを痛感いたします。自宅の階段で躓き、向こうずねをけがして、病院に行きました。「どこでさされまさいたか」家の階段でと言ったら、笑われました。何でもないところで衰えを感じます。不思議なのは山に登る筋肉と町を歩く筋肉は違うように思われることです。町を歩くときが不自由を感じます。川柳に「立ち上がり用事を忘れてまた座る」とありますが、記憶力と気力の衰えはもっとひどく、手紙を書くと時は辞書と虫眼鏡は手放せません人の名前を思い出せずドラマに出てきたあの人、あ、あ、の人...改善すれば少しは良くなるそうですがやはり大事なことは自分で気力を振り絞る起こすことのようです。自分の意思でコントロールできるうちには心がけたいと思っておりますアメリカの詩人サムエルフルマン皆さんご存じの歌を座右の銘として頑張っております。
青 春
青春とは人生のある時期を言うのではなく心の有様を言うのだ
年を重ねただけでは人は老いない
理想を失う時はじめて老いる
歳月は皮膚の皺を増すが
情熱を失う時精神はしぼむ
年は70であろうと16であろうと人は信念とともに若く疑惑とともに老いる希望のある限り若く失望とともに老い朽ちる
サムエル・ウルマンの詩
平成29年10月14日 濱上 源基
古希を迎えられた皆様へ
脇田 正
寒さに震えた者ほど 太陽を暖かく感じる 人生の悩みをくぐった者ほど 命の尊さを知る ホイットマンより
この詩は、私が教職在職中常に座右の銘にしてきた言葉ですはじめは小さな紙に書いて手帳に挟んでいましたそして校長になってからは執務室の机の前にさりげなく色紙に毛筆で書いたものをかけていました。私の境遇からとても気にいっいた詩でありました。校長室には色々な方が見えます。そしてこの色紙に全く気付かない方も多いですが中にはめざとく見つけていい言葉ですねとおっしゃる方もおられます。さらには私にも書いてもらえませんかと、言われる方もおられ様々です。人それぞれ自分の境遇に応じ受け止め方が異なるものだと感じました。現在この詩は退職後自宅のテレビの上に掛けています。さて、昭和三八年三月第一鹿屋中を卒業された皆様本年古希を迎えられるのですね。1回きりの人生を七十才まで生きてこられたと言うことは、実に大きな意味を持つと思います
でも中にはすでに早世された方もおられますが今回古希を迎えられた皆様方まことにおめでとうございます。この言葉は中国の唐時代 杜甫の 「人生七十古来稀なり」から生まれた言葉です。その当時は中国でも日本でも短命だったのが現在では百才(百寿)を増えつつあるようです。皆様も古希を迎えたのを機に喜寿、傘寿、米寿、卒寿、白寿、百寿を目指して下さい
。私も和田中を最後に定年退職し鹿児島市内にある西本願寺中央公園の近くの境内にある和光幼稚園に勤めておりましたが 七十才になったとき主任が音頭をとり、私の古希の祝いをしてくれました。私は現在八十五才になりましたので傘寿も過ぎつぎなる米寿を目指しておりますがそれまで達成できるかかなり厳しい気もします。幼稚園に勤めたことは私にとってとても有意義になったと思っています。和光幼稚園は親鸞聖人の拓かれた浄土真宗の寺の幼稚園ですが園児の皆さんが毎朝小さい紅葉のような手を合掌している写を目にしたときはとても可愛く思いました。そして、京都の中央仏教学院の????に入居し三年間夜中の二時に起き五時まで勉強し何とか卒業できついでに京都まで出かけ得度習礼を受け僧侶の資格を取得しました。これで資格は坊さんですが、実際にそのことをしたことはありません、ただ幼稚園の幼児達を少しでもよりよく育てられたらとの思いからですですから毎週月曜日に学校だったら全校集会ですが仏教園では仏参と言います私も輪袈裟肩に掛けてお念珠を首に掛け幼児にお話をするのです。入園式や卒園式の時にも得度者のおられる前でお寺からも輪番(輪番はそのお寺の一番上の方です)もこられてその中で入園また卒園に当たってのお話をしますとても貴重な体験になりました。ただ私は現在大病(前立腺癌、脳出血)の薬の副作用がひどくとても身体が弱って参りました。昨年まではまだウオーキングできましたのに最近は杖をついても歩くのがきつく倒れてしまうようになりました。病院通いも四カ所で通院もなかなか大変です。車の免許は八十才で脳出血が起こった時自主的に返納しました。病院への通院は長男とその嫁が車で送迎してくれたり都合がつかなければタクシーで行きます。かなり遠くの病院もありそこから帰ったときはかなり疲れがひどく、すぐに横になります。できれば皆様方の古希同窓会に出席したかったのですが無理をして出て皆様にご迷惑を掛けたらと思って出席を思いとどまりました。皆様にとって有意義なすばらしい会になることを念じております。
式次第です。
DVDを受け取って
有り難うございます。
dayan-mama.momoko@ezweb.ne.jp
Sat, 10 Mar 2018 18:03:10 +0900
こんにちは。
伊集院から美坂[旧姓山下]です。
古希同窓会のDVDをお送り頂きまして、有り難うございます。
同窓会には、出席出来ませんでしたが、DVDにしていただき懐かしい皆さんのお顔を拝見出来て、うれしいです。
歳を重ねる毎に、あれこれ故障も出て来ますが、ポジティブに生きて行こうとおもいます。
三寒四温の季節の変わり目、どうぞお健やかにお過ごし下さいますように。
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〒891-0513
鹿児島県指宿市山川岡児ヶ水1581-4
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TEL0993-35-0301
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