濱田(佐伯)正明 代表幹事
有限会社 にしき屋 代表取締役
長崎鼻観光会館 にしき屋本店
〒891-0513
鹿児島県指宿市山川岡児ヶ水1531-4
http://www.nishikiya.co.jp
アクセス
竜宮神社平成23年3月〜平成24年6月
100年に一度の建て替え終わる。
総工費3000万円
幻の焼酎 薩摩半島最南端景勝地長崎鼻
さつま竜宮 屋久島 竹島 硫黄島 黒島
(黄金千貫使用)
赤 竜宮
(紫芋使用)
竜宮神社に奉納する焼酎で長崎鼻にしき屋限定焼酎
観光客人気ナンバー1です。
山本ひと美{金原(上瀬)良子}
歌手
歌曲 大阪はぐれ鳥・望郷おわら
我が人生における感慨
濱田(佐伯)正明 昭和41年電気科卒
加治木会長より依頼を受け私で良いのか迷いつつも我人生における感慨を記してみる。同僚が各地で活躍している姿、頼もしい限りである。平成二十年三見十五日、母校工業体育館にて了徳寺、前龍両氏の尽力により還暦柔道部OBと現役生との柔届交流試合を新聞各社を呼び行なった。鹿屋市長、学校長、鹿屋体育大柔道部監督、鹿屋柔道会長も参列して頂いた。卒業後、四十二年間柔道より逮ざかり皆、メタポで体重が増えたが.体力、気力は落ちた。しかし四対〇で現役生を圧倒し称賛を浴びた。後日その事が新聞記事となつた五名それぞれに出て今日まで懸命に働き現在の地位、名誉を築いたのも、そのその当時苦しい厳しい練習に耐え、皆で頑張った柔道精神の賜物だと思う精力善用、自他共栄が皆の、私の人生訓でもあり、文武両道を座右銘としたものだ。今は亡き田上柔道部監督日く(佐伯君よ、御前に全て任す皆を鍛えてくれ)又亡き桑山桑山柔道部コーチ(拓殖大副首将、首将は木村政彦ー力道山と戦う)日く「大学へ行け俺が学費を出してやる」柔道と勉強をしてこいとの温かい厚意であった事を懐かしく想い出される。その頃の第一鹿屋中は黄金時代(優勝・準優勝)でああった。毎日の激しい練習以外、寒稽古、浜田海岸での合宿、自衛隊、警察署員との練習桜島一週は有意義な高校生活であったと思う。どのスポーツでもレベルの高い実力者の指導の元では強くなり実績を残す事ほ自明の理あろう。大隅大会優勝県大会ペス卜8、私が中量級3位と結果を出せた事が、皆のその後の人生において大いに役立ったと述している。了徳寺日く「今あるのほ柔道のお陰」その通りだと思う。私の過去を振り返ってみる。父が・小学四年時死亡、大黒柱を失ない極貧の生活に陥る。その為自立、自活する途を探る習性が身につく。逆境に耐え打ち勝つ強固な意志が私の信惰となる。貧しさより抜け出すのは学問しかない。将来安定した職業に就く事が人生の目標でもあった。高校進学時、弟・妹がいた為、就職も考えたが、奨学資金に合格、担任紹介の家庭教師で自活し高校を出た。柔道練習後、家庭教師(週三回)残りは大学進学進学(現在三割が進学)の独自勉強だった。卒業時、弟妹を高校進学させる為に大阪読売新聞奨学生として3年間国立大学を目指す。担任曰く(佐伯君よ教師になれ、いい先生になるぞ)その気になり頑張ったが最後の2年間は医学部受験とした。(同僚が阪大・九大進学のため負けられぬという強い思いがあった)。朝刊配達、予備役夕刊配達、夜ほ折り込み入れ準備、そして十時に室に帰り十二時まで勉強、睡眠五〜六時間で頑張ったものだ。いくら中・高時代トップでも英・数・国には苦労した。希望に燃え目標に向っての頑張りは辛く苦しくも有意義な青春そのものであった。名古屋大学病院から二十五才で鹿児島大学病院放射線部(CT.チニヤック)担当者として医療の一翼を担っていた。二十五才で柔道四段を取り公務後は医学部コーチとして毎日柔道で汗を流した。二十九才で見合い結婚する。知的で美しい妻に惹かれれての事であった。妻の実家が長崎鼻で観光業を営んでいた為いしか後継者として期待されている事に気づき私の知力、体力を生かすべく後継者となる決心をする。苦渋の決断であった。大学病院を退職し長時鼻観光会館にしき崖の経営者となる。三十才の時である。二〜三年間は慣れず苦しんだが本来の柔軟性、前向き思考の精神で現在も頑張っている。子共二人に恵まれここの上ない喜びであつたが佐伯姓より濱田姓に改名した。我人生一番の悩み所でもあつた。将来医師にすべく鹿児島に出る。三十五才〜六十才まで毎号鹿児費−長崎鼻の大複である。仕事と子供達の教育の為の二十六年間でありその結果医師となった。親子で頑張った甲斐が有った。将来二人の息子が総合病院でも建ててくれたらと願うがうばかりである。こうして順調に来た我人生にも最大の試練が訪れた。平成十六年一月四日突然妻の左腹部に激痛が走り全く動けず数日後大学病院内科で検査するも二月未まで病名、原因分からず、四月一日寄しくも妻の誕生日にCT.と腫瘍マーカー検査で卵管癌と判明する。教授曰く(ステージVC
、末期癌です。余命二年です。)エッ、末期癌、余命二年ウソダと思い何助かる方法はと聞くと(すぐに手術その後抗がん剤投与、後は経過見でしょう)頭の中が真白、体中のカが抜け腰が立たない状態であった。しかし癌との戦いに負ける分にはいかぬ、死なしてなるものかと持前の闘志を振るい立たせる事だった。術前死の淵にいた妻は、母として子供達事、私の事を安じ、いついつ認めたのか手術室に入る前に手を握り後で読んでネと手渡す手紙(遺言書だった。)(お父さん大好きなお父さん、世界一優しいお父さん、お世話に成りました.子供達を宜しくお願い致します。身体に気をつけて長生きして姉さん達とも仲良くたのみます。人には寿命とゆうものが有るのだと思いました子供達で無く自分で良かったと思います。私はこれで良いけど子供達が一番心配です。お父さんが元気だから後は任せて安心しています。濱田家は姉たちの実家なのでいつでもみんなが集まったり.り泊った打出来るようにしておいて下さい。子僕達も福ケ道家、有村家の子供達と仲良くしてくれるとお父さんも元気になれると思います。みんなで楽しく話し合える場所にして下さい。)手術の成功を祈りながら何度も何度も読み返し今でも文面を見る度に感涙にむせぶ事しきりである。
手術が三時間で終了。しまったやはり手遅れだったかとショックで気失うばかであった。奇しくも四月二十六日(仏滅)だ気を取り直し後は抗癌剤投与に全力投球だと強く心に誓つた。それから八ケ月退院するまで毎日鹿児島1長崎鼻1畳に鹿大病院への往復である。体が弱り病院食が食べられないので野菜入ス−プ(十穫類)とジュース(人参・リン.ゴ一青野菜)を作り食べさせる。一時も長ていて看病し悔いの残らないように全力で妻を支える。余命二年に毎日が祈る気持であった。私もここ二〜三年間は精神不安定で不眠で夢遊病者の様であったと述懐している。今の所癌の数値も安定し神様が奇跡を与えてくれたと毎日感謝感謝の気持である。同室にいた患者も殆んど亡くなっている事からも幸運の至りである。癌は早期発見、早期治療が一番である。丁度長男が医学生で将来は救急外科医志望であったが「母の癌治療は僕が見る」と婦人科医になった事が親として至上の喜びであった。妻にとって心強く生きる力を取り戻した様子であった。順調に来た人生で悔やまれることは同級生を助けるために多額の金を貸し騙され未だに返済されぬ事また親戚の保証人と也迷惑を被っている事その為に私も家族も苦しい生活を強いられている事試練は当分続きそうだ。最後に了徳寺氏につて記そう。工友会の中で間違いなく一番であろう。母校に対する貢献度、マスコミ、雑誌等に取り上げられ紹介される了徳寺学園理事長として、川崎製鉄から三十歳で整骨院開業、整形病院開業、了徳寺専門学校、了徳寺大学と三才から今日まで、ロッケトの如く数十倍の速度で急成長した。今や飛ぷ鳥をも落とす勢いである。鹿児島はおろか日本の押しも押されぬ大実業家兼教育者でもある。どこにその能力、パワーがあるのか考えるに開校式辞で述べた中に氏曰く「私は鹿児島西駅を出る時の切符を今だに持っている。
故郷に錦を飾り一旗揚げる強い決意の為である」有言実行の他人の何十倍も努力し苦労した結果だと思う。同級生として氏の活躍は誇りに思い嬉しい事である。「人生後半勝負」同僚共々末永く切磋琢磨し行けたらと切に願うばかりである。工友会の益々の発展を祈念申し上げます。
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